等しく雨が降り、等しく灰になる
幼少期を中南米、プエルトリコで過ごした自分にとってサウナのような温度と湿度は文字通り理屈ではなく肌で感じる懐かしさのようなものを感じます。
あふれんばかりの街の光の中から一転する、門をくぐった後の暗闇と静寂。表情を読み取ることのできない天使や聖人の像、そよ風はどにも涼しくなっていないと感じる天井で無気力に回る扇風機。物質的なものだけではなく、全てのものが動きを止め、不思議な揺らぎを感じさせる空間。
500年ほど前に、はるかイベリア半島より艦隊とともに訪れた神の子は、今も昔も一体何をしているのだろう。貧富の差は無くならず、腐臭の漂う路地裏で十字を崇める母と子。
その昔、まだ人がユートピアに暮らす頃。全能の神を模して作られた我々の命は永遠だったそうです。しかし人は知恵を得て、自由を選んだ。
やがて子を産み、山を切り開き、町を作り、スラムで暮らす自由を。
その自由すらも許す愛があると修道院で学ぶ友人は神の愛を説く。
そんな自由の街、マニラにはよく雨が降る。
教会にもスラムにも、そして無宗教の僕の元にも、カトリックの彼女の元にも。
全ての人の元に平等に降り注ぐ雨と人生の限られた時間、寿命。
災いであり、安らぎでもある、天からのリアクション。
その二つが交差するマニラの墓地で暮らす人々の生活は、どこか隠喩に満ちた聖書の世界の似ているようにも感じました。