多かれ少なかれ、命を奪うことでしか僕は自分の命を維持することができないし、その次の世代に遺伝子をつないでいくこともできないです。
それは当然のように人間だけの特権ではなく、家畜と言われる生き物に宿る命にも均等に与えられた権利であり、生きる意味でもあると思います。
弱肉強食の掟に効率という概念を持ち込み、そしてやがて殺生の負い目を感じることに目を伏せるようになった我々の日常。
しかし見えない事、知らない事。言い訳と並行して現実は粛々と。
早く、安く、そして印象良く。
僕が食べられる宿命を持ってこの世に生を受けたのだとしたら、それはとても辛く悲しいと思います。
しかし同時に全ての命は生まれた瞬間から死に向かってもいる。
だとしたら、生きる意味とは何なのか。
バングラデシュの首都ダッカでのイード。街の路地という路地で家畜を男たちは自らの手で屠り、そして身の回りの人々、あるいはそうでない人々にもその肉を振舞っていきます。
子供達は家畜が死ぬ前日まで彼らに餌をやり、その頬を撫で微笑みかけていました。
そしてイードの当日、泣き叫び家畜の命乞いをすることもなく、静かに、だけれどもしっかりと足を立ちにつけて自分の目でその姿を目に焼き付け、そして、肉を食べる。テレビやネットで見るとは根本的に違う体験するということが人生や考え方の根を太くする。僕はそう思います。
僕は飲食店を経営しているので普通の人よりも多くの食肉をその手で切り分け調理します。
だけれども命が果てる瞬間、肉に変わる瞬間をその目で見たことはありませんでした。
野蛮な行為とは何なのか。自分がやがて屠られる、死ぬ定めを持っているとしたら。僕は食を通して、どのように生きていくべきかを彼らから教わったような気がしました。