ある日母親の口から、そろそろ自分の墓を用意したいと話をされた。父親のいない僕にとって、それは衝撃的で悲しい話ではあったのだけれども、その動揺は極力胸の内に抑え共に近所の霊園へ。
どの区間がお買い得、いかに広く日当たりがいいか。セールス以外の問い、つまり骨になった後の意識の話を問いかけるには、そこはあまりにも無機質で区画的に感じました。ならばお寺がいいのか。檀家、供養料。金や宗派のの話が多すぎる。ならばいっその事家の庭に、と思ったがそれも法律で禁止されているらしい。
思いは環太平洋の島国を南へ。赤道に近づくほどに死生観の話は、独創的で興味深く、むしろ終わりではなく始まりなのではないかとすら感じさせる。一方で束の間の間宿っていた肉体に対する意識もまた異なるものと感じた。それはもう抜け殻なのか。墓地やジャングルの奥には白骨がわりと無造作に積まれていたり。
どこから来て、どこへ行くのか。
魂などもとより存在せず、わずかな電気信号に脳が反応し、この星の中に偶然生まれた、一瞬光るだけの数億分の一でないとしたら。
僕は特定の宗教を信じてはいませんが、そこに何かの意味を宿らせるのは科学ではなく、人々が長年にわたって積み重ねてきた愛や祈りや畏怖から生まれた、語り継がれてきた話の中にあるのではないかと思いました。
それがあるから信じるのではなく、積み重なった認識が形を成すのだと。無意味に意味をもたらすことは他でもない自分自身にしか成しえない。
かつて海を越え北を目指した先祖という旅人。そして死後また海の先の世界に渡ると考える人々の旅。
沖縄、台湾、フィリピン、インドネシアのかつて兄弟だったかもしれない人達の想像力を巡る旅の写真です。